きれいはきたない、きたないはきれい。
それを見た気がする。わたしはシェイクスピアをあまり知らない。チェーホフもほとんど分からない。それでも。
きれいはきたない、きたないはきれい。
息苦しくて、立っているのが精一杯で、足掻くほどにうつくしくなくて。そういう人間を見て、がんばれ、がんばれと声をかけながら、哀れに思い、自分ではなくてよかったとほっとする。そういうことが、誰にでもおこる。この世界では。
露悪的で高慢なものを、下品だと吐きすてるのは簡単だ。簡単ですこし気持ちがいい。自分が高慢ではなく、品というものを知った気になるから。だけど自分の高慢さに気づかずただ愛されたくて一生懸命な誰かと、賢明なふりをして哀れな他人を見下している誰かと、どちらがきれいで、どちらがきたないのか、わたしには判断がつかない。
かなしい。愛がきちんと正しく、都合よく交換されて、だれも寂しい思いをしない世界になればいいと思う。思うけれども、わたしの愛はわたしがうつくしいと感じるものにしか注げないし、きっとあなたもあなたもあなたもそう。それは一方で、とてもかなしいことなわけです。
わたしたちの神様は、うつくしさの基準を、好き嫌いの基準を、あんがい雑につくってしまった。そのことをきっと今ごろ嘆いている。だってあの子もあの子もあの子もあの子も泣いている。それはぜんぶ神様のせいで。だから神様だって泣いたほうがいい。雑につくってごめんね、不公平になってごめんねと、怠慢を悔いたほうがいい。出来ることなら世界を一から、作りなおして。
だけども、だけど。
わたしは、神様じゃないから。
雑につくられたこの世界で、高らかに笑うしかできない。
大切なひとたちに、大切な順に。
愛をおくるしかできない。