どうか近くから見ていてほしい。

モモンガ・コンプレックス vol.12 『遠くから見ていたのに見えない。』をみるために、横浜にいきました。
お昼を食べようと軽い気持ちで入った洋食屋さんが思いのほか本格派で、さっくりと食べるつもりがしっかりとナイフとフォークを並べられ、サラダから始まるハンバーグステーキ。急いで食べて、食後のコーヒーをキャンセルして、駅まで走ったらギリギリ間に合った。よかった。しかし洋食屋さんはとても美味しかったので、また今度ゆっくり行きたい。きっとコーヒーも美味しかったに違いない。

モモンガ・コンプレックスは、駒場アゴラ劇場で『大失敗。』をみて以来。ダンスのことはよく分からないが、わたしはモモンガ・コンプレックスがすきです。かわいくて、とぼけていて、自由でたのしい気持ちになる。今回は『遠くから見ていたのに見えない。』というタイトルで、正直なところそれの意味はよく分からなかったけれども、かろやかに、自由自在に動く四肢はとても美しかったし、それも見守る観客のキラキラした眼差しも含めて、非常によい時間であったと思います。北川結さんが、とてもすきだなあ。すてきだったなあ。

そのあと、赤レンガ倉庫に寄って、ラーメンを食べて帰った。花粉があれだったけれども、よい休日でありました。

蹴った小石をまた蹴ってあるく帰り道

日常のなかで、空腹とおなじように頭痛や胃痛がおこるし、ごはんを食べるのと同じように頭痛薬や胃薬をのむ。もう随分とそういうふうに生きていて、慣れてしまったし、年月が経つ体感速度は年々はやくなっていくし、この人生が終わるまで、もうこのまま薬を飲みながらやり過ごせばいいや、という気持ちでいる。

余生をいきている。という気持ちが、ある時からずっと自分のなかにあって、本当の本当のところは殆どすべての事がどうでもいいから、どうせならば面白くなるように日々を過ごしていこう、という方針でいる。いちばん大切なのは生きていく、ということで、それはつまり生きるという選択を常にじぶんに課し、生きるための理由を日々のなかでひとつひとつ摘んでいく作業があるわけだけれども、その意味で、芝居を始めたことはとてもよかったなと思っている。芝居は面白い。一回一回きちんと終わりながら、それでいて答えがないから終わりがない。そのいっ時、自分ではないものとして他人と深く関わり、終わればすっと遠のいていく感じもいい。こちらが向上をのぞむ限り、まったくもって退屈することのない世界だなと思う。

わたしは退屈がこわい。退屈というのは、恥をかかずに生きることだ。退屈の先にあるのは、傲慢か死だ。退屈するくらいならば、恥を抱えて穴を掘りたい。

ひとつの世界に身を置くと、憧れがうまれる。わたしはそもそも性質が単純であるゆえ、あの人みたいな演技が出来たらいいなとか、あの団体の作品に出てみたいなとか、すぐ思う。そういう生々しい感情は、日常に緊張感を与えてくれるし、願いが叶ったときには、生きていてよかったなという気分になる。これが本当にありがたい。こういうことの繰り返しで時間が流れていったら、とても健やかであるなあと。そうありたいなあと。願っている。願っています。

マイハウス・イズ・フリーワイファイ

朝起きて、雑誌のデザインの仕事をひとつ仕上げた。
連載も21回目となり、デザインと言いつつある種のルーティン・ワークの様相で、よくないなあと思う。毎回キーカラーを変えているけれども、今回はピンク。春だから、ピンク。さくらのピンク。我ながら安直だ。けれどもそういう、お決まりというか、日本人ならば全員分かる共通言語としてのテンプレート、みたいなものに、わたしは素直にテンションが上がる性質なので、喜び勇んでピンクにした。

昼からは「文字とロック」の中ページ企画の撮影で六本木へ。「文字とロック」というのはロ字ックが発行している不定期のフリーペーパーで、勿論オマージュです。新劇団員として色々質問されたりしたけれど、うまく答えられなかった。「文字とロック」の読者を意識して話すわけだけれど、そのひとたちは目の前にはいないし、顔の見えない不特定多数にむかって(役を与えられもせず、素で)何かをアピールするのは苦手だなと思った。文字になったときにどうなっているのか不安。

六本木で映画でもみて帰ろうかと思ったけれど、ちょうどよい時間のものがなく、森美術館のN・S・ハルシャ展でもみるかと足を向けるも、チラシの「見どころ」をひととおり読んだだけで草臥れてしまい、やめた。芸術は受け止めるのに体力をつかう。

もう帰ろう、と思ってから、どういうわけだかたくさんの買い物をした。画材屋さんやフライングタイガー・コペンハーゲンで、絵を描いたり服を作ったりする道具を買った。アンティークっぽい風合いのゴールドのフォトフレームを買って、ずっとやりたかった「Wi-Fiパスワードを玄関に飾る」を遂行した。なかなか気に入った。うちを訪れる方々はどうぞWi-Fiをご自由にお使いください。

TAMARIのアクセサリー


最近気になるアクセサリーブランド。

TAMARI。

この前大阪に行ったとき、ルクア1100をふらふらしていたら、とてもよい雰囲気の一画があって、そこがTAMARIのエリアだった。アンティークやビンテージの素材を使って一点物のアップサイクル・リメイクアイテムを作っている姉妹らしい。いまは奈良に住んでいるらしい。すてきだ。きっと喧嘩もするんだろうな。すてきだ。手の込んだモノクロームがわたしはすきだ。

http://www.tamarishop.com/

たぶん悔い改めたほうがいい

きれいはきたない、きたないはきれい。

それを見た気がする。わたしはシェイクスピアをあまり知らない。チェーホフもほとんど分からない。それでも。

きれいはきたない、きたないはきれい。

息苦しくて、立っているのが精一杯で、足掻くほどにうつくしくなくて。そういう人間を見て、がんばれ、がんばれと声をかけながら、哀れに思い、自分ではなくてよかったとほっとする。そういうことが、誰にでもおこる。この世界では。

露悪的で高慢なものを、下品だと吐きすてるのは簡単だ。簡単ですこし気持ちがいい。自分が高慢ではなく、品というものを知った気になるから。だけど自分の高慢さに気づかずただ愛されたくて一生懸命な誰かと、賢明なふりをして哀れな他人を見下している誰かと、どちらがきれいで、どちらがきたないのか、わたしには判断がつかない。

かなしい。愛がきちんと正しく、都合よく交換されて、だれも寂しい思いをしない世界になればいいと思う。思うけれども、わたしの愛はわたしがうつくしいと感じるものにしか注げないし、きっとあなたもあなたもあなたもそう。それは一方で、とてもかなしいことなわけです。

わたしたちの神様は、うつくしさの基準を、好き嫌いの基準を、あんがい雑につくってしまった。そのことをきっと今ごろ嘆いている。だってあの子もあの子もあの子もあの子も泣いている。それはぜんぶ神様のせいで。だから神様だって泣いたほうがいい。雑につくってごめんね、不公平になってごめんねと、怠慢を悔いたほうがいい。出来ることなら世界を一から、作りなおして。

だけども、だけど。
わたしは、神様じゃないから。
雑につくられたこの世界で、高らかに笑うしかできない。
大切なひとたちに、大切な順に。
愛をおくるしかできない。